学校という建物がなければ明日のセミナーのテーマ、なぜ、学校と地域の融合が大切か?考えていたら、ふと、もし、建物がなかったらどうなるだろう、と 思いました。 そう、地域で学ぶしかないのです。地域の人にすっかりおんぶしてもらうしかないのです。 でも、待てよ! もともと、本来の学校は、地域の現実社会そのものだったはずです。 子どもたちを現実社会で、希望をもって生きられるように育てるのが、学校です。そうだとしたら、社会そのものが、最も偉大な教科書であり、ゴールのはずです。 現在の学校は、あきらかに、社会から隔絶しています。 非日常的な世界です。 そして、何と、それを当然としているのです。 学校と違う現実の方が悪い、と。 世俗を下に見る気持ちはないだろうか? 生きていく生活は、すべて世俗的なものです。 社会の求めるものと、学校の目的には、大きなズレがあります。 みんな、それを知っています。 生徒さえ気づいています。それでいて、違う世界を、違う論理で 世渡りしているのです。 学校には学校の論理があるのです。 しかし、それは明白に誤りなはずです。 組織の論理として、致し方がない面はありますが、 それは、あくまで必要悪です。「悪」なのです。 だって、それは、オーナーである社会の要請と違うんだから。 学校という建物がなければ、 八百屋さんや、工場が学校になります。 地域の人々も、真剣に子どもたちを守らなくてはなりません。 学校という建物がなければ、 本当の先生は、働くお父さん、お母さんであることが わかります。学校の教師がガイドであると気づきます。 そう考えると、いつでも学校は開けるのです。 どこでも、学校です。 学校に、地域がお邪魔させてもらいに入るわけではないのです。 地域に学校が帰ってくるだけなのです。 地域の子どもなのに、学校という異国に、拉致監禁されていたのです。祖国に連れ戻す運動をしているのです。 なんちゃって。こんなこと言ったら、どうなっちゃうんだろう? 今、この教育体制の中で奮闘している先生方を個人攻撃するつもりは、さらさらありません。 問題は、システムなのです。 民主主義国家としては、個人の奮闘ではなく、形式を尊重していかなければなりませんから。 |